昭和46年02月01日 朝の御理解



 御理解 第71節
 「ここへは信心のけいこをしに来るのである。よくけいこをして帰れ、夜夜中、どういうことがないとも限らぬ。おかげはわがうちで受けよ。子供がある者や日傭取りは出て来るわけにはゆかぬ。病人があったりすれば、捨てておいて参って来ることはできぬ。まめな時ここへ参って信心のけいこをしておけ。」

 ここへは信心の稽古をしに来るのである。よく稽古をして帰れと、初めからそう言うふうに仰っておられるし、一番最後の所にも、まめな時ここへ参って信心の稽古をしておけとも結んでおられる、ですから、言うなら平穏無事、何でもない時、しっかり信心の稽古をしておけと言う事になるのですね、ただ病人があったり。日傭取りなんかは、毎日参ってくる訳には行けん、( ? )ここんところを、信心の稽古というのは自分の都合よか時に稽古するんだというふうに。
 この様な所を通りだした所ですけれども、そうではなくてですんね、まめな時ここへ参って信心の稽古を、何でもない時というね、その時にしっかり信心の稽古をして置けとこう。ところがなかなか何でもない時には信心の稽古一切はできませんですね、やはりそこに何か難儀を感じ、なにか困ったっと、どうでもこのことだけはと言うような時に、やはり信心の稽古ができるのである。いわゆるまめな時、ここへ参って信心の稽古をしておけと、もう平穏無事の時には、それこそ有り難うて有難うて。
 お礼参りをさせて貰わなければ居られんというのがお参りと言う事になる、いわゆる稽古になると言う事になるのですからね、というたらいつもかつもが信心の稽古と言う事に、ならなければ行けんのでじゃないですかね、限りがないですから、色々難儀を感じます時に、その難儀の中から信心が分かる、信心が分かる楽しみとか喜びとかいうものがです、まずまめな時。いうなら何でもない時にお礼参りさせて頂くと言う事が信心の稽古をさせて頂くと言う事が一番有り難いと言う事になるね。
 昨日甘木の教会で筑水連合会の信心研修会、幹部の方達の会で御座います、中央からまあ教務所からですから、みえておられた、佐賀教会の( ? )、昨日は会合がもたれた、その中で平田さんの話を、もうなんて言うたってやっぱり平田さんあたりの信心が抜けておられると、( ? )こう言う言を言っておられる、信心させて頂いておかげを頂いたと信心によって、例えば商売が繁盛のおかげを頂いたと、まあいうなら信心のおかげで儲け出したと、言うのであるからすぐに消えるのだと。
 そう言うおかげは、そう言う信心はね、商売人が商売を通して信心が分かったと言う事にならんから信心があとに続かなかったり、いわゆる頂いたおかげがもろくも消えてしまうのだと言う意味の事を言われた、もう本教のところで申しますと、今日私が申しております所申しますと、そんならそこに難儀があった、だからその難儀の事をおかげ頂きたいと思うて一生懸命参った、おかげを頂いただけではいけん、その難儀な事を通してこう言う信心が分かったと言うおかげでなからなければダメだと。
 もうその通りでありますよね、私は信心の稽古と言う事はね、ここへは信心の稽古をしに来るのであると、稽古をして帰れという様々なここでは、まあ難儀な時困った時はそうは参りは出来ないと言うふうに教祖様は言うておられますけれども、まめな時ここへ参って信心の稽古、当時から難しい事を言うておられます、だから見やすう行くと、難儀があるときにでなからなければ出来ませんね、普通一般ですからその難儀な時に信心の稽古をすると、そしてその難儀をを通して。
 難儀から解放されたらおかげ頂いたではなくて、難儀を通して信心が分かるから、今度はまめな時はいよいよ有り難い、勿体無いで信心の稽古が有難う、楽しゅう出来るのである、そこでなら信心の稽古を、ここで信心の稽古に来るのであると仰るから、信心の稽古をさせて頂くんなら、稽古の焦点と言う事になります。様々ななら商売なら、商売の上においても、おかげを頂いじゃなくて、その商売を通して信心が分かった、商売を通して信心の稽古をしたとこう、ならその商売を通して信心の稽古をするが。
 その稽古の焦点はどこに置くかと言う事になるね。これはやはり平田さんがお話になっておられたそうです、もうまるきり合楽の御理解のごたった言うておられますが、ね、何と言うても「はい」と言う事だと言う事、、いわゆる素直になることだと言う事、商売なら商売を通して、言わばハイと言う事になってくる、商売なら商売、難儀なら難儀を通して「ハイ」という心になることだと、そこんところの焦点。
 それでもやっぱり、甘木の教会に大変有名な、この頃現教主の紹介しておりましたですね、お百姓さんで、仲行なかいきさんでしたかね、その方甘木の総代さんです、中石さん中居さんかその方が、まあ最後に一言まあ話しをされたその話がです非常に自分の心を取られたという風に高橋さんが言うておられましたが、秋永先生もそれを言ってましたが、まあ総代をさせて頂いたら様々な御用がいっぱいあります、それでもう一度いつとはなしに教会から電話が掛って来る、その時に私はこう思いますという。
 はあ丁度今こんな風で手が離せません、そう言う事はいうた事がなかっち、私の身で叶う事ならばという精神で御用を承りますとこう仰っしゃる、私共で出来ますことならば(  ?  )それを、教祖の御伝記の中にもあります、弟繁右衛門さんが神がかり的な風になられましてね、教祖様にまだ、いわゆる信心は手厚うなさっておられますけれども、まだ何もないお百姓をなさっておられる時の話しなんです、そういう随分と無理な事を言っておられますけれどもね。
 私の身で叶う事ならばしてあげましょうと言った様な所があります、それは教祖の御信心の姿勢その態度という物がね、いわゆる甘木の総代さんの、身についておると言う事だ、私はあのところの一節をを思わせて頂いて、いつも私共が叶う事ならばという姿勢で教会からいつなんどき電話がかかって、御用があるよと言ったら私共で叶う事ならばという姿勢ですからいつも、( ? )忙しい手が離せませんと言う様な事は言わん、自分に叶うことなら、それをほってさい行きゃ、もう自分に叶う。
 どういうわけにたって離せないと言う事はない、神様の前には、自分の身で叶うことならばハイと承りますという、流石に甘木あたりでは長年信心の稽古をした人達の、その事を、いわゆるもう身に染み込んでおられる、信心というものは素晴らしいなあ、というて話した事でした。ここへは信心の稽古に通てくると言うて通てきて、そう言う事が身に染み込んでしまう、それがあなたとかと言う事は言わんですね。私の身で叶う事ならばという姿勢そういう物がです。
 何十年長い信心をさせて頂いておられるうちに、身についてしまったと言う事、素晴らしい、ね、だから、信心の稽古をしろ、信心の稽古しろというても、ならその難儀な事を通して、なるほどいろいろ分からせて頂きますけれども、やはり稽古の焦点というのがそこにはっきりしとらねばいけん。これもやっぱり甘木の平田さんが言っておられた、私が今いうておる事があんた達に分かるはずはなかっち仰った、解る筈がないけん、ただ分らんでんよかけん、あたしが言う言を聞いとかんのそれが。
 今になって分かってきたと言うて言うておられたそうですね、自分が分からなければ合点しなければ「はい」と言えないと言う事じゃないっち、信心とは。これは私もそれがいえれると思うのですね、私自身がはあそうかと思うて、私自身が今分かりよる事、それで皆さんに聞いてもら、だから皆さんは分かるやら、分りょうらんやら分からんけれども、やはり、聞いて頂きたい、ですから、その向こうにどういうことになってくるかと言うとです、分からん。
 分からんけれども先生がアー仰るから任せる気にもなれば、はいと言う事にもなる、あんたどんが今分かる筈がなかっち、分かるはずがなかばってん、私の言う言を聞いておけと甘木の初代は言うてござったが、それが今にして分からせていただくと言うて、平田さんの話しを聞いてきたと、もう本当に信心の言わば、事を本気で稽古をした人は違うと言うて話しておりますね、ただ信心の稽古をしておりますと言うて何十年も参りさせて頂いても、焦点もなしにね。
 参ると言うて、ただ毎日毎日お参りをしよるけん、教典を総暗記、拝む事は内心要領よう拝めるようになった、話もするならもう、先生のごたるなふうな話しも出来るようになったと言うだけが信心の稽古しておる、そ言う物だけが身についておるであっては、それは何にもならん。昨日楽の先生達、(  )先生がで見えておられました、それで私と橋さんと三人で夕食をさせてもらって、夕食の後に( ? )先生が言われるのが、大坪先生あなたがまだ御信者時代に。
 私にこう言う事を言われた、先生覚とられますかっちから言われまして、どう言う言を私は言いましたのかね、( ? )さん、神様から使われっぱなしにでもなりなさいますなと言われた、もうそれが、もう、もう、それがもうどうしてか私の心をとらえて離さんっち、神様から使われっぱなしになりなさいますな、あなたから言われたことがね、私はそれを聞かせて頂いて、いわゆる二十何年前でしょうが、それを言うた神様から使われっぱなしになるなというその言葉がです。
 もう今二十年後の今日に頂いても生き生きとして、私が反対に頂いたようなさらなる言葉として私の心の中に響いていた、確かにそうだね、先生この御教えの中にもありますようにね、「氏子が神のようをたせば、神が氏子のようをたしてやる」、確かにそうです、神様の御用をしておりゃ、氏子のようは神がたしてやると仰るようなおかげが受けるけども、それはね。私共がいよいよ神様がして下さったというだけの事、それだけの事です。とりわけこの楽人と言う人達が非常におかげを受ける人が少ないですね。
 信心が中途半端、もう、楽人さんは、まあ、本当にそういう傾向がある、なぜかというと御用に使われておる訳ですね、いろんな事柄( ? )それを一生懸命稽古をする、一生懸命稽古をすることがです、句節神様の御用につこうて頂く事の為ですけれども、その一生懸命楽に打ち込んどるから、もう自分は信心が出来とるという風に思うからだ、だから、楽人さんは神様から御用に使われただけというような結果になる、だから、使われとる間は、成程いろいろおかげだけは受けおりますけれども。
 神様から使われてお徳を受けたと言う事になっていない。力を受けたと言う事になっていない、これは皆さんもそうです、一生懸命教会の御用でもさせてもらう、神様の御用でもさせてもらう、確かに氏子の用は神がたしてやると仰るような、いわゆるおかげが受けられますけれどもその御用がです、信心が土台になる、信心の有り難い勿体無いと言う事が分かる、その有り難い、勿体無いがそこに何か御用でもさせて貰わなければおられんと言う事がね、このような御用であったら。
 氏子の用は神が足して下さるだけではなくてです、その信心が分かる信心の稽古が出来て行く、その楽を通して信心の稽古が出けてくる、お商売をさせて貰うもうおかげを頂いて、金光様の信心させて頂く様になったら商売が繁盛するおかげを頂きますという、そうだから消えてしまうんだと平田さんが言われたというね、おかげを通して神様が分かり、商売を通して信心が分かったと言う事になり、その向うにおかげが伴ってくるというおかげでなからなきゃ行けんという、皆さん方が言えれると思うておるですね。
 そこでお互い信心のこうした稽古をさせて頂く、だから漠然としたのであってはいけない、それはいろいろな信心の知識というかね、今まで知らなかった事をいろいろ分からせてもらう、昨日も滋賀県ですかね、高宮教会という、上野先生の学院の同窓生ところに、合楽の信心を大変傾倒されとる先生で、月々おかげの泉を送ったり、それから半年位じゃないですかね、ここでテープを一巻送ったり、そのことのお礼がいつもきよります、昨日も手紙が来たと言うて上野先生がお届をしております。
 一つの御教え、一つの御理解からどうしてこのような深い肉付けができるであろうか、もうテープを聞くたびにその肉付けの深さ広さに驚いてしまうというて、おかげを受けておりますという手紙がまいったと、ですからね、そういう例えばなら合楽ではです、ひとつの御教えならひとつの御教えをあらゆる角度から、それこそ、神様の知恵と思わなければおられないほどしの、表現を持って、一つの御教えを縦から横から、いわば頂くわけです、ですからこの御教えはこういう素晴らしい。
 いわば内容を持った御教えであるなあと言う事が分かる、だから信心の稽古をさせて頂いてそれが分かったと言う事だけでは行けんね、例えばこの71節なんかでも、もう何十回頂いたでも分かりませんけれども、今日のこの御理解もちょっと今までいわなかったとかなかったと言う事になりますとね、病人や難儀の時にはなかなかお参りができない、だからまめな時にここへ参って信心の稽古をして行けと仰るけれども。
 実を言うたら、その病人があった、難儀な時になかなけりゃ信心の稽古は出来ないと言っておる、ここんところが今日は新しいところですね、だからいつもまめな時には、もう嬉しゅうして、楽しゅうして、もうおかげを頂いて有り難うしてというお礼参りがそのまま信心の稽古になるんだと、と言う様なことを、今日は初めての表現ですねこういう意味では、ですからそう言う事が一つのみ教えから、今西岡さんが毎日アーして毎日5時間づつかかる、これをどうでも自分の一生一回の仕事として。
 このご理解の編集に取り掛かるそれなら、御理解71、今日の一節ですから71節、71節だけを全部20年間の間のから抜粋(ばっすい)して一冊の本にしよう、っち、71冊でこんなあつい本になるわけなんです、一説だけがそういうお届けがあっております、ですから、そういう例えばこの一説がこのような、深い意味合いを持ったもんであるということが全部分かったところでです、分かっただけでそれは稽古じゃない、勿論分かると言うことは楽しいこととでも、有難いことでもあるけれど。
 そのギリギリの焦点というところはです、どこに置くかというと、様々ないうなら商売を通して信心が分かるでもです、どこに焦点を置くかというと「はい」と言う事であり、素直なことでありね、甘木の総代さんじゃないですけれども、私の身で叶うことならばという姿勢を持って御用にあたる、しかもそういうものが長年の信心の稽古の間に詳しいことは分からんにしても、それだけが身に染み込んだというのですから大したことだと思う、甘木の平田さんが言うておられるように。
 平田さんあんたが今私が言うておることが分かりやせんっち、御理解をしなさった後に、あんたどんが今分かる筈がない私でもようやく分かりよるじゃから、分かるはずがなかばってん聞いておけ、解る筈がないばってん言う言を聞いておけ、だから今平田さんが言われることはね、結局分からんけれども、はいというほかにはないと言う事だと力説されたと言う事です、ね、そういうものが何十年の信心の間にです、そのはいが身に染み込んでおり、私の体で出来ることならば。
 私の腕で叶うことならば、自分の都合などは言わんですむだけのものが染み込んでおるという事は大変なことだと思う、信心の稽古とはそれなんですよ、合楽で皆さんが深い、または、広い、あらゆる範囲においてです、それこそ神様の知恵、神様のいわゆる、英知と思われるほどしの表現を持って、だだ一節一節違うけれども、それが素晴らしい素晴らしいというて、それが詳しくなっても何もならんっち、何にもならんことないけれどもですね、それではね、本当のものにはならん。
 わけは分からんけれども、はいと言うてきたことが、今日ようやく初代が言うておられたことが分かったと平田さんがいわれるように、あぁそうそう青いさんと言いますね、その青井さんという総代さんが、甘木のね、どうでしょうか皆さんが20年間ここで信心の稽古をさせて頂いて、自分の都合のよか時ははいと言うけれども、なかなかね、それでもとか、そういうわけにはかんとかと言う様な事が沢山あろうとこう思うのです、まだ身についていない、まあすみませんけれども。
 それが丁度今日はこうで都合がありますけんち言うてから、それこそ私の身で叶うことならばという姿勢というのはまだ信仰にはあるでしょうか、もうそれは素晴らしい、素晴らしい、もうその話聞いただけでね、昨日の研修会にあなた方行って、おかげを頂いてきたね、また私もそれを聞かせて、私はもう必ず聞くんです、もう根掘り葉掘り聞くんです研修会に行かれて帰ってみえたらね、私自身もそれでおかげを頂いたということなんですけれどもね。
昨日、ある病人さんのお届けがあった、先生が入院せんでいいといいなさるなら入院せんでつもりでおりますけん、どうさせて頂こうかっちね、私はどうして入院せんのとか、入院しなさんなとか言えれるですかね、先生がもう薬は飲まんでいいといいなさんなら薬は飲まん、先生が飲めといいなさるなら飲む、そう言う事が素直と思うとるなら大間違いです、信心の稽古と言うのはね例えば、なら病気なら病気をするね、薬を頂こうとは思いませんと言うその一心がおかげを頂くんですから。
 医者でもかかろうとは思いませんと神様に一心を向けるからおかげになるのですから、私が言うたら二心になるじゃないですか、私が言うたけん一心になったと、それが日ごろ信心の稽古をさせて頂いて、ここにあるんです夜、夜中いつどのようなことが起こってくるじゃら分からないね、そういう時にです、腹がピッシャット決まるような稽古を常日頃しとけとこう言うのです。そのお届けを受けさせてもらいよったら、フリですね、いわゆる舞、踊りまかしょという、踊りがあります。
 そのまかしょを踊っとると頃句を頂くです、その人が言うとるその、任せますという、まかしょというのは、私は任せるという意味だと思うのです、けれどもね、軽い意味においての任せるですね、先生がもう病院には行かんでよかバイち言わっしゃるけんはいち言う、そういうはいじゃいかんちいうことね、神様一心でおかげを頂きたいと思います、どうぞ、これが本当の任せる、まかしょじゃ行かんと、例えばそ言う事がです、信心の稽古をさせて頂いてです。
 いわゆるはいとか素直と言った様な信心の稽古を常日頃させて頂いとってですね、今日私が申しました内容によるところを稽古させて頂きよるうちに、そういう確固たる物が生まれてくる、そういう例えば難儀を通して、そういう信心が分からせてもらう、信心させて頂いとるおかげで商売は繁盛するでは、それは必ず消える、金光様の信心させて頂いて商売が繁盛してきたと、繁盛のおかげを頂きよりますというのではいかん。
 その商売を通して信心が分かる商売がさあ、また売れたまた売れたと言う事ばっかりじゃなかろう、反対に赤字なることも損することもあろう、けれどもその商売を通して信心が分かっていきよる、信心が分かった信心におかげが伴のうてくるというおかげならば、これは間違いがないということになるのです、ここには信心の稽古に来るところである、とのっけから言うとられます。また一番最後にも、ここにはまめな時、ここへ参って信心の稽古をしておけと、後先にそうい、最後にそう結んでおられます。
 ならお互いが信心の稽古にこうして毎日通うておるが、どこを焦点に、ただ信心が詳しゅうなっていきよるのも稽古でしょう、また、詳しゅうなったことを身をもって行じていくうちにです、いろいろと体験も生まれていくことは有難いけれどもです、それをずっと絞ってです、訳は分かるまいけれどもあの先生が仰る、平田さんに、今私が言う事があんたに分かるはずがないけれど、とにかく黙ってついてくる、そして何十年たった今日、初めて、言わばわけは分からんなり、はいといった。
 ついて来たことがこのように素晴らしいことであったと分かりだしよるというておられる、私は信心ちゃそのへんが素晴らしいと思うのですね、何十年信心させて頂いておる内にです、教祖様の信心姿勢であるところの、言うならば、繁右衛門さんとの問答の中にありますように、私の身で叶うことならばという、このことに魅力を感じられた、素晴らしいなあと思われた、だから、その事を自分の信心に頂こうと発願されて、何十年信心がたっていきよったら、今では自分の身についてしもうた。
 教会から何時、どのような事で電話が掛かってまいりましても、それが自分の身で叶うことならば、はいと喜んで教会に出ますという意味のことを話されたとこういう、それが身に染み込む、それが稽古です、稽古によって何ができるか、明日はあんた達は何々じゃけんどこどこに来て下さい、それが明日ちょいと私は都合の悪い、そげな事なら、それはいいよったんでは稽古にはいっちょんならん、日頃どんなことで詳しゅうなりよったっちゃです、詳しゅうなったちゃいよいよの時に。
 それが今日ご都合ありますけんでち言いよったら、もう肝心要のとこの稽古をはずしていきよる、ね、しかもそれは馬鹿のごたる、なんもの変哲もないごたる、けれども何十年経って、なら青井さんが現在お百姓の上におかげを受けておられるのは、この頃あのね、幻聴(げんちょう)でも紹介されておられるほどしの大変なおかげを受けておられるね、何十年後になって初めて初代が言うておられたことが今分かっていきよるという、そのはいの一言がです。
 今になって分かりよる、と言われるなら平田さんがです、それこそあのようなおかげを受けておられるでしょう、その事を通して信心が分かって行かれてからのおかげだからなのですよ。昨日もその宮田先生話せる、その宮田先生言われる、ほんに初代の時分に大したことじゃったですねがね、久留米はもう久留米の大商人にといわれるほどしの人達は皆御神縁を頂いとる、第一あの、国武さんとかね、徳永さんとか、それこそ、大商人です、久留米の大商人が皆お取次ぎを頂いておかげを頂いた。
 ところが、今頃は推移の一途であるとか、信心のほろもなかごつなっとるとか、もう何処にいっておるじゃら分からんと言う様な人達もたくさんあるち言う、ほりゃ久留米の初代のおかげで、もうこういう商売のおかげを頂いたと言う様なね、おかげを受けた人はそれこそ数あまたであったけれどもね、信心を頂いておる人は本当にごくまれあったということになるのです、ですから、商売で本当に儲けださせてもらうことは、どうでも儲けださせてもらわにゃ行かん。
 おかげを頂だかにゃいかん、けれどもその商売を通してね、信心がわかると言う事、その商売を通して信心の稽古をするという事、売れたり、売れなかったりと言う中に信心の稽古をさせて頂くという事、その信心の稽古がしっかり基盤が出けて、それに打ちたてらるところのおかげであるなら狂いがない、ならその焦点を、私は信心の稽古の焦点をやっぱりはいと言う事であること、素直と言う事であるこれはもう、言うなら合楽で20年間言い続けてきたこと。
 お話を聞きよってまるで合楽の御理解を聞きよるごたると、だから先程秋永先生でも言うておる、言うた、けれども、20年間稽古させていただいて、どれほどそれが自分の身に沁み込んでおるかと言う事ね、青井さんの話から、平田さんの話しからね、はいがもう、沁み込んでしもうておる、私の身で叶うことならばという、その信心がもう青井さんの身に沁み込んでしもうておる、私は合楽の皆さんの場合はですね、このしみこんでいくそこまで、私はそういう雰囲気がつかなかった。
 合楽の人達もこれほど言うなら、素直になることを説きよるから、皆が素直と思うておった、けれどもそういう風にですね、魂に言うなら沁み込んでおるほどしの物ではないと言うこと、それにはですただいま申しますように、いよいよの時に先生が入院せんでよかといいなさるなら、もう腹を決めて入院をしませんと言う位な弱い信心でそういう「はい」やら、そういう姿勢が身に沁み込む筈は有りません。
 日頃何の稽古をしとるか、そういう時に私に任せなさいと。例えばいえれるほどしの信心なんだいうなら。昨日、一昨日でしたか、久富繁雄さんが、ある家族の病人さんの時にです、もう家中家族中の者が、病院へ連れて行く、いうならそういう話しを皆しておるという時にです、とにかく私に任せんのうというて、父親にも親戚にも全部、私今考えて見るとどうして。
 言う事が言えたじゃろうかとおもいますというて、ある方に繁雄さんが話しておられるのを横から聞いて、ほんにそげなこつがあったねと言うた事でしたね。それなんです親先生が言いよりなさるけん任するじゃなかね。親先生の御取次ぎを頂いてからこう言う事が起こってきよるとじゃけん、間違いがあろうはずがないじゃないの、私に任せなさいとこう言えれる、その信心を頂いて行かねば駄目なんえですよ。
 いよいよの時にね、だからそこんにきのところですね。今日はよく頂いて頂きたい。信心の稽古に通う、だからいろいろその詳しく、信心のことが詳しゅうなるという稽古も大事、けども、その焦点になるところを、私は今日は「素直」と言った様な事を、今まで合楽で説いてきた素直といっても身に沁み込んでしまう素直、身に沁み込んでしまう姿勢というものをです、いよいよ本当な物にしていかなければならないと言う言を申しましたですね。
   どうぞ。